実弟と側近に裏切られ全てを失った老夫婦の残酷物語止めを刺した(競売)介錯人は、城南信用金庫中野支店(1)

2010/10/08

 終戦まもない昭和24年、太田一吉夫婦は身を寄せていた都内杉並区にて、太田鉄筋工業所を立ち上げた。昭和41年には共立鋼業株式会社へと社名を変更し、その後も地道な努力を重ねていき事業規模の拡大を果たしていった。輝かしい実績とはいかないまでも、激動の戦中戦後を生き抜いた昭和世代の苦労人といえる。平成となった後も、関連会社を設立するなどし、意欲を持って事業に取り組んでいた。

 本来ならば、一線から退く年齢ではあったが、自身の傍に置き経営を学ばせていた実弟、太田道則の能力不足は明らかな上に、会社創業時からの経理担当であった豊島沍もまた、金にルーズな一面もあって、引退を躊躇せざるを得なかったようだ。次期経営者と金庫番が揃って無能であることは、太田一吉にも責任があるといえるが、身内や苦労を共にした仲間を切り捨てることなく、抱え続けた心情は察するに余りある。

 そういったなか、太田一吉に転機が訪れる。平成8年、妻と共に起業した杉並の地から離れることなく生きてきた太田一吉は、地元「東円寺」の檀家総代となり、その折に住職から葬儀会場の新規建設への協力を嘆願されたという。太田一吉は、菩提寺と愛着ある地元への貢献にもなると考えたが、会社を牽引しつつ片手間に取り組める事業でないことも承知していた。熟慮を重ねた結果、期待を込めて太田道則と豊島の二人に会社運営を託したのであった。

 ただし、良くも悪くも共立鋼業が太田一吉あっての状況から、取引先等に不安を与えないとの配慮から代表取締役を降りることはなかった。勿論、両名に期待を寄せつつも、会社運営の全てを任すには力量不足が否めないとの判断もあったのであろう。しかし、温情的ともいえるこの判断が、後の破滅への切っ掛けとなったのである。

 その兆候が表面化したのが平成10年、太田一吉が現場から一歩引いてから僅か2年余のことである。共立鋼業の事業拡張を成す為に設立した「共立横浜」が、内紛の末に分離独立してしまったのだ。

 この時、共立横浜は和解金として1億2千万円を共立鋼業(太田道則)に支払ったようだが、実情は子が親を見限っての手切れ金とも考えられる。因みに、内紛収拾に当ろうとした太田一吉を、太田道則は尽く拒否した上で勝手に話をつけたという。しかし、何より不可思議なのが、業績好調の子会社(優良資産)との決別といった誤った経営判断を看過した、メインバンク城南信用金庫中野支店の対応である。

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