銀シャリ
天寿を全うした亡き父。

 8月6日午後2時55分、父が亡くなった。数えの91歳だった。誰にでも運命の時は来るとは思っていたが、連絡を受けた時は不思議な気がした。

 4年前に母が亡くなってそして今父が亡くなった。一緒に生活していれば悲しみも一入だろうが、離れていると実感が沸かない。
 長く入院生活を送っていて、状況を常に院長先生から報告を受けていたこともあるだろうし、91歳という父の年齢に、どこか満足感があったのかもしれない。

 私は18歳で東京に出てきたので、父の思い出は昭和30年頃から45年頃までの姿である。
 戦前父は満州で兄が経営するタクシー会社の所長を務め、生活は潤っていたそうである。だからこそ当時は島原では名門だったマスキン創治者の孫にあたる母を嫁にしたのである。
 順風満帆で船出した2人だったから、戦後実家へ引き揚げて来てからも最初のうちは仕事も順調だったそうだ。

 当時は、昔気質の引き揚げ者同士?戦友?として契りを交わし、ある意味では家族や夫婦よりも強く信頼するような風習が時としてあった。男尊女卑も色濃く残っていた時代でもあり、母の注意も聞き入れず仲間が困っていると何人もの保証人になったらしい。
 果たしてその債務者が何の前兆もなく夜逃げし、ある日突然、父の肩には借りもしない借金の山がどっさりと伸し掛かり、銀行からは毎日督促状が届いたそうだ。
 「保証被り」である。

 それからの日々は私にも記憶がある。今なら会社更生法もあるし、自己破産という手もある。しかし当時は銀行を始め貸し手が強くどんな無茶な回収法も可能だった。

ご多忙中にもかかわらず、葬儀にご参列頂きました皆様方に、心より御礼申し上げます。亡父も喜んでいる事と思います。

 父は働き盛りの際中にやる気を無くしたんだろう。母と子供に仕事を押し付けて自分は酒を飲み、麻雀に明け暮れ全く仕事をしなくなった。
 兄や姉達は小学校低学年から、夏は他所から来る大人の売り子さんに混じってキャンデー売りを手伝っていたし、冬は母が2時、子供達は4時から起きて豆腐作りを手伝い、売りに行ってから学校に通っていたのである。

 当時は敗戦間もない頃で国全体が貧しく、特に田舎では麦飯芋飯はまだ普通の時代ではあったが、子供達にここまで働かせる家庭はあまり無かった。
 因みに私が純白の米飯を食べたのは確か小学校2年の時で、今回父の葬儀でお世話になった真蔵寺であった。
 何かの法事があった時、祖母に連れられて行った記憶があるが、その昼食に真っ白いご飯と味噌汁に沢庵が出た。うまくてうまくて3杯程お代わりした。あのお米のおいしさは今もしっかり覚えている。
 兄や姉達が早くに働きに出て家計を助けてくれたので、私が中学に行く頃はだいぶ楽になった。

 昭和39年には東京オリンピックもあり国の景気も良くなり、田舎でも少しずつ仕事が増えていった頃である。
 今思えばのどかな話であるが、ラジオを買ったからと言って近所の人や友人を呼んでお祝いしたり、またいつも自慢していたのが口之津湾に鮫が迷い込んで来た時、独りで格闘して捕まえた、という話である。
 今もノコギリの刃のような大きな背びれが記念にとってある。
 大きなエビガネを釣った時も仲間を呼んで飲んでいたが、酒乱に近い飲み方をする父はいつも自分が呼んだ仲間達と最後は喧嘩していた。
 子供の頃からいやな酔っ払いを見てきた私は、今尚酒飲みは好きだが酒に飲まれる人は嫌いである。
 エビガネという言葉が今もあるかどうか知らないが「ガネ」は島原地方ではカニのことで、エビとカニが合体したエビガネは伊勢海老かロブスターだったような気がする。

 
 男の意地 
たくさんの方々に見送られて西方浄土へと旅立った。

 父は子供に父らしいことを何にもしなかった。何かを買ってくれるとか誕生日を祝ってくれるとか…。
 子供の頃は「優しい父のいる家に生まれたかった」とか、「一人っ子の家に生まれたかった」などと思ったものである。
 こうして大人になってみると、親に祝ってもらえなかった誕生日も悲しかったけど、どんな親でも子の成長は何よりも嬉しい筈。
 その子の誕生日を祝ってあげたいのは山々だけど、その余裕がない親の気持ちは、子供の悲しみの何倍も辛かったに違いない。
 もし私が今、普通の親ならしてあげられる「親としての義務」を果たせないほど貧困であったなら、死を選びたくなる程の屈辱を感じるだろう。恐らく父もそれに似た心境だったろう。母とて同じである。

 世の中に耐え難き苦労が存在する時、その最も苦痛の1つが貧困である。貧困はその人の解釈によって、絶大なるエネルギーを起こし、何事でも乗り切れるほどのパワーを作り出す気の根源にもなるし、また逆に世の全てを否定しやる気を阻害する魔物に変身することもある。

 父は91年間生きて、何も自慢するものは無かった。外面がよくて自分の家族には優しさがなかった。仏頂面して無口で愛想がなかった。
 そんな父だったが、何故か死に顔だけは穏やかで、今まで見たことの無い優しい顔をしていたのには驚いた。
 厳しい人生ではあったが8人の子供を育て上げた満足感、神に授かった宿命を完遂した充実感。そんな喜びが父の顔にはあった。

皆様から200を超える供花を頂き、感謝の念に堪えません。この紙面を借りまして厚く御礼申し上げます。

 そういえば何一つ自慢の無い父に1つだけ自慢があった。誕生日が11月3日だった。文化の日である。
 「自分の誕生日を国民が祝ってくれる」確かにそうである。家族兄弟の皆には申し訳ないが、無精な私が身内で知っている誕生日は父の日だけである。旗日だから忘れないのだ。

 母が良家の子女出身で成績優秀な金時計組だったのに比べて、父は筋肉隆々の体育会系であった。
 文化の日に生まれて体育会系というのも面白い話だが、優秀な母に負けたくない男の意地だったのか、亡くなった日も8月6日の広島に原爆が投下された日だった。子供達全員に最期の顔を見せるため、夏真っ盛りはせいぜい2日間が限度と言われたにも拘わらず、火葬までの5日間、父は生前のような顔で子供達を待っていてくれた。
 父としての男らしさを最後まで保ちたかったのだろう。

 日本の旗日に生まれて、世界が忘れてはならない日に西方浄土へ旅立った。子供達には必ず記憶に残る父らしい最期だった。
 忙しく通りすぎた真夏の野辺送りで淋しさも忘れていたが、釣瓶落としの夕日が沈みだす頃、その情景にも似て、私の心を落莫とした風が吹き抜けることだろう。

合掌

 
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