故桜井義晃、最後のシノギ廣済堂子会社は何故潰れた

(敬天新聞5月号)


現在の廣済堂トップ長代厚生代表取締役―鼻の穴は北島三郎級である。

北京廣済堂印刷有限公司の解散

 印刷・出版の大手である栢A済堂(港区=長代厚生代表)が、二年前の五月に子会社の解散・整理を行なった。上場企業が簡単に倒産する今の御時世、不採算部門のリストラなど珍しくもないし、企業としては当然の判断といえる。
 特に、印刷・出版業界は市場が急速に縮小しており、廣済堂も生き残りに必死なのであろう。それと同時期には、三十年近く継続してきた同社を象徴する女子プロゴルフツアー「廣済堂レディスゴルフカップ」からも撤退をしており、形振りかまっていられない激しい企業体力の落ち込みが伺える。
 さて、廣済堂が切り捨てた子会社だが、中国の北京にあった「北京廣済堂印刷有限公司」(桜井勝彦代表)である。解散・整理の理由として、市場の競争激化により採算が取れず、一年あまり休業状態が続いたことで、清算を決意したという。但し、廣済堂本体の業績への影響は軽微であるとしていた。

好景気・優良事業がなぜ破綻?

 額面通りならば的確な判断だといえ、同社株主にも異論は無かったと思える。しかし、日本の印刷技術は、世界に誇れる高度なものであることは、揺るぎない事実である。
 日本の上場企業である廣済堂が、技術的にはまだまだ未熟な中国に進出し、成果を出すどころか休業状態に陥り、逃げ出さなければいけなくなったとは、如何しても腑に落ちない。
 加えて、廣済堂が北京廣済堂の経営に着手したのは平成十五年のことであり、折しも北京オリンピックを三年後に控えた好景気の最中でもあった。更には、この北京進出を主導したのが、廣済堂の創業者であり、良し悪しきに付け超ワンマンと言われた桜井義晃(文雄)が、死去する前の最後の大仕事でもあり、廣済堂としても並々ならぬ意欲をもって望んだ事業だったのである。
 それにも拘らず、実質四年余りの短期間で経営破綻に等しい状態で解散・整理へと向ってしまったのか。二年経った今、その真実が見えてきたのである。

桜井から怪しい出資金譲渡契約

 そもそも北京廣済堂は一から立ち上げられた企業ではない。既に、北京にて盛業中であった「北京角王印刷有限公司」の、出資金譲渡を受ける事から始まったのである。
 平成十四年の十月頃、廣済堂銀座ビルの一室に於いて、北京角王印刷の董事長(日本でいう取締役会長)は、同社株式の買取を桜井義晃に持ち掛けていた。
 齢八十をこえて尚、事業意欲旺盛な桜井義晃は、全株式の六十%を買取ってくれとの申入れに対し「私は凸版印刷の個人筆頭株主だから、廣済堂が八十%買取り、その内から四十%を凸版に売却するようにしたい。そうすれば技術も知名度も上がり企業価値は五倍十倍になる」と、董事長の申入れの上を行く条件を提示したのである。
 董事長にしてみれば、自己持株比率が四十から半分の二十%に減るものの、魅力ある条件ということで了承を即答したのである。話はその場で価格交渉へと移り、翌年の出資金譲渡契約書にある一億八千万円の価格にて合意がなされた。
 このとき桜井義晃は「折角なら増資をする。現状設備では大きな仕事がとれないから、増資をして最新の輪転機他を導入したい」と、先々の事業計画をも語っている。
 董事長は困惑するものの、本来なら全額を受け取るところ、一億円は増資資金に充てるということで、廣済堂側に預け入れたのである。
 今後、増資をする場合に預け入れ金から充当すれば、上限五億円までは二十%の持株比率を維持しつつ、ついていけると考えたからである。

桜井の口約束頓挫→破綻一直線

 董事長が、廣済堂を引き入れるつもりが、廣済堂の企業規模を遥かに上まわる凸版印刷までもが参画するということで、目先の現金を手にするより得策だと判断したのも当然のことである。一部から妖怪と畏怖されていたカリスマ桜井義晃の放つ言葉に、董事長はすっかり魅了されてしまったのである。
 しかし、この時の判断が大きな間違いであり、後に董事長は悔やみきれない後悔をすることになる。最初の躓きは、桜井義晃が決定事項であるかに言っていた、凸版印刷による株式を引受けての事業参画が頓挫したことである。
 惜しむらくは、事業の核を欠いたこの時点で、条件違いを理由に一億円の返還を求めていればよかったのだが、廣済堂の経営能力を信じることで請求を思い留まってしまったのである。そして、北京廣済堂が企業の体を失う切っ掛けとなったのが、桜井義晃の死去によるものと考えられる。
 財界の妖怪といわれていた桜井義晃が死去したことで、いろんな意味で抑圧されていた廣済堂の箍は、一気に開放されてしまったのである。その影響が顕著に表れたのが、海の向こうにあった北京廣済堂だったのである。

桜井勝彦の放蕩経営がトドメに

 同社代表であった桜井勝彦は、廣済堂本体の監視から離れた上に、目の上のタンコブが消えたことから、経営責任を事実上放棄して、酒と女遊びに興じたのである。
 当時の中国は、カネさえあれば男の欲望の全てを叶えられる土地柄でもあり、桜井勝彦はドップリと嵌っていった。
 無能な経営者が放蕩のすえに、上場企業子会社を傾かせたのであっても大問題だが、想像するに容易いというか、桜井勝彦は刑事告発に相当する背任を犯した節がある。
 会社の資産を欲望のままに遊びに費やしたとの事実は、廣済堂代表の長代厚生も認めていたことが、北京廣済堂の解散・整理に伴う董事長との会談の席上で明らかになっている。
 耳を疑いたくもなろうが、市場での競争激化を理由とした北京廣済堂の解散声明は全くの出鱈目であり、廣済堂株主はまんまと騙されたことになる。
 一生分遊び呆けた桜井勝彦は、平気の平左で帰国後、廣済堂の代表取締役(副会長)に就任していたが、北京廣済堂の解散・清算に向けた協議が開始されるやいなや、一身上の都合を理由に自ら辞任を申出て、後は知らないとばかりに会社を去っていた。
 この辞任については、廣済堂が促したとの話もあるが、北京廣済堂の真実の破綻理由を闇に葬ることは、事実の隠蔽と虚偽の適時情報開示を犯した廣済堂、当事者の桜井勝彦の双方にとって、利害一致の共通する思惑だったことは確かである。
 黙っていられないのは、振り回された董事長である。そもそも、北京廣済堂を誕生させるが為の出資金譲渡契約からして、廣済堂は密かに罠を仕掛けていたという。(つづく)

敬天ブログ敬天新聞トップページ敬天千里眼