社主の独り言(渋辛口)

(敬天新聞2月号)

▼世の道理として例え権力者であっても、人には超えてはならない一線と言うものがある。人それぞれに、国それぞれに、価値観は違うだろう。小沢一郎は完璧にその一線を越えた。
 皇室は日本国民にとって特別の思いがある。あの公の場での皇室軽視発言は日本人ならできない。鳩山が認める不世出の政治家であろうが、与党国会議員を束ねた独裁者であろうが、国民が「否」と言ったら一気に崩れる。国民を愚弄したそのつけは、田中角栄の数十倍の醜さで結果として現れよう。その先陣を切っての表明こそが、先日の東京地検特捜部の強制捜査だった様に思える。国民の一人として拍手喝采だ。
 日ごろ物言わぬ国民が、ひとたび立ち上がり一致団結した時の怒涛の怖さを、小沢には思い知らさなくてはならない。そこに犯罪があったからこそ特捜は立ち上がった。法も時には権力で捻じ曲げられることもある。圧力のない正義の捜査の遂行が実現できるためにも、すべての国民がしっかり捜査を見届け、また国賊小沢の犯罪に加担した者、協力した者は正直に事実を告白して国民に謝罪を乞うべきである。
 今、小沢は明らかに国賊になった。今までの業者から小金を集めた小沢なら許せた。汚れた裏金作りは親分の角栄、金丸ゆずりだろうから誰も驚かない。だが今の小沢は汚れた権力者と放っておく訳にはいかないのだ。小沢は政治家として一線を越えた責任を取らなければならない。
▼小沢は「不正な金は使っていない」と強気なふりをしているが、それなら何故わざわざ嘘を記載させるのだ。記載漏れや記載ミスではなく、あえて故意に嘘を記入している。それは石川議員も認めている。秘書というのは一番信頼された子分という意味で、親分の指示なしに親分の了解なしに、個人の判断だけで物事を判断する立場ではない。
 小沢は真っ黒である。腹黒さでいうなら角栄や金丸の比ではない。彼らはなんだかんだ言われながらも部下は最後まで面倒見てきた。小沢に至っては長年連れ添った仲間でさえ、皆離れていく。藤井裕久氏や渡辺恒三氏のような、ずっと支えてきた長老のような存在でさえ、自分の出世のためには斬り捨ててしまうのだ。
 渡辺正次郎先生の話によると、小沢は創価学会の池田大作から1,700億貰ったという。170億の間違いじゃないですか、と何度も尋ねたが1,700億だという。公明党から総理を出すという話を持ち出して金をせしめたと言うのだが。
 その金をスイスに隠しているという。だから必ず小沢は一年に一回、スイスに一人で行くのだという。公明党の金庫番だった藤井富雄が側近に小沢の金の汚さをいつもグチっていたという。
 この正次郎先生の話が本当なら、小沢の金銭欲は止まる所を知らない。この際マスコミは徹底的に小沢の金脈研究をすべきでないか。また鳩山は小沢の腰巾着のような発言ばかりしているが、日本国の総理であることをもう少し自覚しないと国民が民主党から離れていくのは時間の問題と言える。
 民主党議員も同じである。せっかく政権交代をしたのに小沢の独裁に発言もできない国会議員なら、直ぐに支持を失うだろう。
 小沢が選挙を指揮したから勝ったと思っているようだけど、誰もが言っているように民主党を応援したのではなく、自民党に嫌気がさしただけだった筈だ。それだけなのに、いつの間にか民主党の中で、小沢神話ができてしまい、あっという間に独裁者になってしまった。みっともないのは総理である鳩山が一番小沢を恐れている事だ。自分が総理大臣である事を全く理解してないのではないか。鳩山も初めは礼儀正しくて、懇切丁寧な話しぶりに好感を持ったものだったが、時間が経つにつれ、決断力のない、小沢の使いっ走りっていうイメージがだんだん強くなる。困ったものである。
 評論家や専門家は小沢は当時野党だから、認可権を有してないから贈収賄での立件は無理というが、その地域に行けば、与党、野党に関係なく絶大な力を持っている人がいる。
 その人を通さなければ、何も始まらないという人がいるのだ。地元では小沢が正にその人で、そのファミリーが許認可権を持っている行政などにしっかり食い込み、秘書から一声掛けることでスンナリ決まる、という構図なのである。
 だからこそゼネコンが列を成して裏献金した筈なのだ。そうでなければ水谷建設の会長が五〇〇〇万円も届ける筈がない。実質的な贈収賄なのである。贈収賄が法的に成り立たないのなら、ゴリ押し罪とかねじ込み罪とかいう新しい罪でも作って欲しいものだ。勿論、その前に「無理やり」という強要的な冠がつくのだが。とにかく小沢金脈を洗い直すべきだ。
▼人生を長く生きていると、勝った、と思う時があったり、負けた、と思う瞬間があったりする。それを繰り返しながら人は生きているんだなーとつくづく思う。これが動物であったなら、負けは即、死を意味するが、幸い人間で生まれた為、肉体的死まで追い込まれることはない。責任を取るという意味も含めて精神的・社会的追及から立ち上がるまでに長い期間を要する場合もあろうし、また一晩寝て癒える場合もある。
 勝ったと思う瞬間も数多くある筈なのに、負けたと思うことが傷として心に長く残るのは何故だろう。負けるということは動物の世界では死を意味する。だが人間の世界では恩情や法律で助けて貰い、誰かに慰めて貰うことで忘れることができる。だが、実際には動物の血が流れる人間だから、動物が負けた時と同じように死を意味するような強烈なショックを受けているけれども、それを忘れてしまっているのかも知れない。或いは毎日が勝ち続けなければならない世の中だから負けた時の印象が強いのかも知れない。
 毎日、平凡で何もないように見える日々は勝ち負けで言えば、勝ちに相当している日々です。言わば不戦勝かもしれません。生きるという事は先ず食べるという事ですから、食べてる間は勝ってる、という事ですし、殆どの人は日々勝ち続けている、ということなのです。勝ち方に多少の不満があるだけで、後はどれだけ欲を抑えることができるか、というだけに繋がります。
 死ぬまで強欲な人もいれば、若いうちから多くを望まない人もいます。しかし世の中では、強欲な人をやる気がある人とか力がある人と表現したり、多くを望まない人をやる気がない、とか力がない、とか言ったりします。半分当っていて、半分外れています。
 人によって人生観、死生観、価値感やその他全てが違うからです。憲法も法律も国によって違うし、また、その時一番力のある人が決める事ですから、全てに万全ではありません。
 世の中は矛盾だらけで、人が声高に掲げる正義でさえも真実は半分しかないのです。何故なら、戦う者はお互いに正義を掲げています。しかし少しでも矛盾を減らして犯罪や不満をなくす為に法が作られ、そんな中で我々は暮らしているのです。

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