社主の独り言(甘口)

(敬天新聞12月号)

▼今年の一番大きな変化は自民党政治が潰れた事である。自民党政治にどっぷり浸かってきた我々がこの変化に付いて行けるだろうか。戦後六十年を見直すのである。糖尿・高血圧・コレステロールのメタボな身体を医者やインストラクターの指導の下、食生活と運動を取り入れ、健康な身体を取り戻すのだと言う。
 確かに自民党政治には情報開示のない秘密裡な政治行政は多かった。その溜りに溜まった鬱憤が爆発したのである。ここ三十年の自民党政治家は全く政治家に見えなかった。権力だけが政治家で、やってる事は商人か式典で挨拶する来賓の飾りでしかなかった。それも用もないのに忙しい振りをして挨拶が終ったら途中退座するのである。選挙の時だけ頭を下げて、後はふんぞり返り国から予算を取って来た分、県に帰って威張れる仕組みである。
 その中には見返りもあったろう。これの繰り返しであった為、中央官庁を監視するなんて発想は微塵もなかった。三権分立は庶民を説得する理想論で、実際は三権同舟論なのである。また現実には我を押し通してギクシャクした関係より、お互い顔を立てあった風通しのよい関係の方が運営はスムーズに行く。そこにナーナーの感覚が生まれ、お互いに踏み込めない聖域が出来て行ったのである。

 国会議員は県の代表ではなく、国の代表、国の行く末を任せられた代表である訳だから必ずしも県単位代表でなくてもいい。
 だが現実は谷川弥一のように長崎県民を代表して発言するならまだしも、自分の会社の利益しか考えないような輩が自民党国会議員なのである。国会議員は三分の一位に減らし、日本の代表という意識を持たせることである。
 自民党政治が壊れた事で政治がよく見えるようになった事はいい事であるが、見え過ぎる事で国民一人一人に責任が負い被さる事に年配者は耐えて行けるのだろうか。世の中には知りたくない事も知らなくていい事も沢山ある。特に家族主義、親子関係を大切にしてきた日本の国がアメリカ主義に毒されて失ったものは多い。それを更に人権、平等、友愛に力を入れて民主化するというのだから、よりアメリカ的になるという事か。
 これは民主党右派が主導権を取った場合の話。民主党には社会主義を信奉する集団も多数いる為、日本という国の垣根を壊す危険性もある。これが実は恐いことで、メタボな身体を医者やインストラクターの指導の下、健康な身体に取り戻す事は重要な事だが、医者やインストラクターにも考え方や手術、指導方法が全く違う人がいるのだ。優秀な医者ばかりとは限らない。

 永住外国人に対する地方参政権付与法案等はしっかり監視しないと本当に危険な法案である事を知るべきだ。事業仕分けはムダを省く為に大変いい試みであると思う。この際、日米安保も地位協定も宗教も教育も年金もみーんな見直せばいい。アメリカ主義の負の部分なのか、ヒッピー並の若者の乱れと犯罪性の悪質さ、恥を知らない国民に成り下がった者へ喝を入れるべきだ。
 義務教育には道徳の時間を入れ、青年時代には愛国精神訓練期間を設けるべきである。先祖供養を大切にして家族を大切にして地域を大切にする。物を大切にする教育に力を入れるべきだ。人を騙す事の恥ずかしさ、物を盗む事の恥ずかしさをもっと教える事だ。
 それにしても、蓮舫ちゃんの小気味よい発言は雰囲気と共に妙に清々しい。清々しいイメージといえばタレントの小林麻央ちゃん。遊び人のイメージのあった歌舞伎の市川海老蔵も麻央ちゃんとの結婚ですっかりイメージが良くなったねー。今年も無理やり爽やかで終りましょう。民主党もいつまでも前政権のせいにしちゃダメ。それがイヤで国民は政権交代を託した。責任を持て。

▼もう一年の締め括りを書かなければいけない季節になった。この時期は晩秋から初冬にかけての季節であり、物悲しさも一入である。何度も何度もこの季節を迎え、いよいよ人生の晩秋である。虎は死して皮を残す、というが人は死んで何を残すのだろう。
 燦然と名を残す人、毅然と実を残す人、だが圧倒的に小さな家庭の主として生を受け継ぐ連鎖の一葉でしかない人が殆どである。生きている事が人それぞれにドラマであるが、何故かふと感傷的になるのも、この時期の特徴である、と、毎年毎年似たり寄ったりのセリフしか浮かばない今日この頃である。一人の感性という物は有限なのか、私の歳脳が限度なのか、同じ事を何度も話したり、前に書いた記事を何度も書いたりするのである。

 同じ事を何度も話をする人で懐かしい人がいる。今は故人となられたが、日大の有名な監督で篠竹幹夫という人がいた。篠竹監督はどこからか聴いてきた面白い話があると、それを毎日のように話をする。毎日、初めて話をするような話し方をするので、聴く方も初めて聞くような態度で拝聴せねばならない。私は直接利害が絡まない立場だったので、聴いたり聴かなかったり自由にできたが、コーチや父兄は大変だった。身振り手振りの熱演に一つ一つ反応しお世辞笑いとわからないように笑ってあげるのである。しかも話は回数を増す毎に監督自身の体験談になって行き、その主役は常に監督自身にすり替わっていくのである。
 何でも一番じゃないと気がすまない監督は決して上手いとは思えないシャンソンを歌うのだが、自分では上手いと信じていた。相撲でもアマチュア界のスターだった田中英壽監督(現日大理事長)に負けた事がないと公言していたし、泳いではフジヤマのトビウオと敬称されたあの古橋廣之進先生に勝つと宣言する人だった。横浜生れ横浜育ちが自慢だった。横浜が自慢となれば任侠界まで横浜自慢で、どう考えても夢の中の話しだとは思うのだが、稲川会創設者の稲川聖城総裁とよく麻雀をした、とか。
 ただ、運動部、軍隊、ヤクザというのは男の理論的なもので共通項はある。従って運動部を引っ張る監督業には男臭さは必要なのである。現に私は新宿の面と言われた加納貢氏の紹介で篠竹監督の秘書となったのである。ナルシストの倍くらいナルシストだった監督は、常に物語のスターだった。

 水泳実習で学生を連れて千葉の海岸へ行った時のこと。陽が沈みかけた夕暮れ時、水着姿で一人波打ち際に座り、上半身を反らした姿勢を両腕で後ろに支え、沈み行く夕陽を眺めていた。手首から下の両掌は爪を上にして、上半身の重みで砂の下に埋っている。上半身には心地よい潮風が当たり、伸ばして座っている足から尻の部分と砂に埋っている掌の部分には時折波が押し寄せている。
 そうした至福の刹那に浸っていたら後ろの方でカリカリっと音がするので何だろうと振り向いたら、小さな子供が自分の爪を一生懸命取ろうとしていたと言うのである。その子供は波が打ち寄せる度に砂に埋った監督の爪の砂を波が押し流し、桜色にキラキラ輝いて見えたものだから、監督の爪を桜貝と間違えて一生懸命掘っていた、と言うのである。
 桜貝がピンク色した爪のような貝かどうか知らないが、これを臆面もなく話されるものだから、冗談にも「本当ですか?」と言えない悲哀があったのである。それでもアメリカンフットボールという分野では間違いなく英雄であったし、名監督であった。人の上に立つ者はこのぐらいの自己陶酔がなければ一流になれないという事か。どこぞの教祖様達も幾つものこうした逸話を持っている。勿論、大半が作り話だろうけどね。

▼色々な方から社主の独り言を参考にしているよ、との意見を頂く。中には文章のプロや国語のプロと呼ばれてるような方からまで、面白く読んでるよ、との声を頂く時もある。思い付くまま好き勝手に書いているだけなのに恐縮である。
 基本的に読者は男女問わず年配者が多い。そんな中で男性陣は辛口を好む傾向にあるし、女性陣は甘口を好む。辛口を書いていても神社の若い宮司さんに所作や古典を教える立場の池田先生(高校時代の恩師)からは「まだ甘い」とお叱りを受けるし、元ちゃんの奥さんからは「甘口が少ない」と苦情を言われ、あっちに気を使い、こっちに気を使いしながら、今年も暮れて行くのである。

 

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