社主の独り言(中辛)

(敬天新聞9月号)

▼ふる里の ああ
  ふる里の ふる里の
 ふる里のお母さんは、ふる里の海は、ふる里の友は、ふる里に帰れば都会の喧騒や生活の疲れが消えてしまう魔力がある。この土地にもそれぞれに苦悩や柵はある筈なのに、生れ故郷と言うだけで疲れた心を癒し慰め勇気づけ、そして善人にする。

 ふる里には不思議な魔力がある。一度旅に出てふる里に帰ってくる時、人は誰も自分を育ててくれたふる里に感謝の気持ちを持っている。

 八月五日に少年柔道の恩師の昇段祝賀会があったので、そのままふる里で長目の夏休みを取った。たまの帰省だから親の墓掃除を始め、野暮用が貯っていてあっちこっちに忙しい。それでもふる里は空気が違う。

 今年は白洲が出なかったのでタコ漁りが出来なかったのが残念だったが、毎日ふる里の海が見られたのは幸せだった。

 今回の驚きは何と言っても、この小さなふる里に百八十五年も続く商店があったと言う事。寺や神社で何百年という歴史がある話はよく聞くけど、田舎で永く続けて行く事は至難の技だろう。一代で大成功する人がいても二代目に手腕があるとは限らない。

 都会と違って、田舎の場合は跡目を継ぐのは殆どが家族、それも子供である。その時々で繁盛したり、衰退もあったりするだろうが、途絶えず続いて来た事が凄い。日本の経済力の凄さは実はこういう所にあるのかも知れない。

 例えば佐川急便の社長とか、一代で財を成したような人を華やかに取り上げ、立志伝中の人と持ち上げる話はよくあるけれど、代々続く事を取り上げる話は少ない。脈々と続く家系こそ日本人が最も誇りとしなければならない伝統かも知れない。宮崎家具店が百八十五年、えちごやが百十四年、長崎屋が八十五年、松尾組が八十二年という。

 苦しい時もあるだろうが、是非とも次の代へつなげて欲しいと願う。天晴れ。

 

▼私は動物の本能に一番近い生き方をするヤクザは基本的に好きである。国を守る自衛隊も国民を犯罪から守る警察官も好きである。子供の教育を受け持つ先生も体を治療してくれる医者も農業者も漁業者も、それらを売ってくれる商者もみんな好きである。日本人は職業を一つに決めて区切りたい人種だが、人の繋がりから割り切れない職業もある。

 私の友人に特殊暴力知能集団と呼ばれている人物がいるが、成る程、言い得て妙だ。私がこう呼んでも彼は怒らない。権力に媚び諂い、巨悪の手先として片棒を担ぐエセマスコミがそう呼ぶ事に彼は怒るのだ。「お前にだけは言われたくない」と。勿論暴力団ではないが、一目置かれているような叡智と度胸がある。巨悪と言われるような権力や不正に立ち向かって行くには、それなりの力は必要で、ヤワな根性では潰されてしまうのだ。

 彼の場合、その力を正義に使っているから許されるだろう。当局が付ける通称名だとか綽名はどうでもいいではないか。世間はしっかりその活躍ぶりを頼りにしてるし、期待している。別に犯罪を犯している訳ではないのだから、当局も目の敵にする必要はない。むしろ彼らのような生き様は保護し思いっ切り活動させた方が世の為、人の為である。

 もしその言動に犯罪性があったら、その時その場で対処すればいいではないか。彼らは詐欺師や盗っ人と違って逃げ隠れはしない。自分の主義主張をしっかり述べ、立ち位置も理解している。何より国益を最優先課題とし、愛郷精神に満ち溢れている。安っぽい国会議員より数段格式も高く、国や故郷に愛着と誇りを持っている。

 ヤクザも親分と呼ばれる人は人生経験が豊富で人物家も多く、世の侘び寂は基より清濁の善し悪しまで判断できる人が多いのである。そのヤクザを全て暴力団として追い込むのは利口なやり方ではない。バランスが大事である。不良外国人の制圧や非行少年の抑止には一定の効果があるではないか。一時の感情で性急な法律成立は国を滅ぼす結果にも成りかねない。悠久の歴史に学びながら、世界を見る目こそ大切である。

 

▼これが世に出る頃は、民主党が初の政権を取っているだろう。大勝したから政策の全てに国民が納得したと言うのではない。選挙は一種祭りのような所があって突然吹く風や雰囲気に呑まれる事も多々ある。四年前の総選挙では小泉さんの単純明快なワンフレーズマジックで猫や杓子まで議員になった。こうして見ていると村会議員レベルでは人物で選び、その人の手腕に期待出来そうだが、国会レベルになると党が主体となる為、人物は全く役に立たないのではないか。

 将来の不安定要素を煽り、「生活第一」と言えば聴こえはいい。だが発展途上国ならまだしも日本は世界第二位の経済大国である。やる気さえあれば食うには事欠かない。飢えを経験した年配者は耐える事を知っている。問題なのは若者だ。甘やかして、煽てられて、怒られた事のない若者が増えている。その若者達に働く尊さを教える事が大事なのではないか。人を騙す事の恥ずかしさを説く事ではないか。

 マスコミは日本が近隣アジアから嫌われ、批判されたような記事ばかりを載せてきたが、現実には日本の政策も日本人も成功した見本として大いに参考にされている。色んな調査で第一位となっている。民主党の大勝はアンチ自民党の離反に過ぎない。自分達の行為が国民目線と大幅に掛け離れている事に全く気付かない程、驕り昂ぶってしまった自民党が嫌になっただけなのである。この兆候は二十年位前から見え隠れはしていたのだが、その度に優秀な演出家が居て、乗り越えて来たのである。

 というより、理想主義矛盾党の村山富市氏に一度やらせて見たら、ただ謝って回るだけで、何も出来なかった。それどころか自分達の党是まで百八十度変えてしまって国民は呆れたのである。

 昔、野球で江川事件というのがあった。驕り昂ぶった読売巨人が野球規約の間隙を縫って、怪物江川を強引に入団させた事件だ。当時は野球ファンの半分以上は巨人である。巨人の対戦カード以外は放映がなかった。私も巨人以外で知ってる選手は二、三人しかいなかった。その大巨人に国民から大ブーイングが起こり、事の重大さに巨人は直ぐ白紙に戻した。この時多くの巨人ファンが離れた。私もこれが元でアンチ巨人となり、やがて野球そのものに魅力を感じなくなった。

 野球はスポーツだからいいが、政治を嫌いになる訳には行かない。政治こそ生活だからだ。「生活が一番」と言う言葉は民主党の専売特許ではなく、全政党に直結した言葉である。今後、自民党から経済犯罪者がボロボロ出るだろう。今まで政権与党として一緒に政治を司って来た官僚の一部であった検察としては自民党の犯罪は暴き辛かったろう。民主党になれば押せ押せである。

 国家の大計は必要である。その為の国策捜査ならやってもやらなくてもいい。世界では国力があっての発言力であり、意見も通る。貧乏人が麦飯を食わねばならないのは世の常である。国民に麦飯を食わせたくなかったら、国としての発言力を持つしかないのである。哀れむ心も譲る心も強さを持った後に持つ心で、最初からそればかりではひもじさから脱却できない。

 衣食足りて礼節を知る、である。因みに現状の日本は衣食余って礼節を知らず、であるが。今の日本、国家に必要な物は国力であり、今の日本、国民に必要な物は礼節だろう。枯れ木も山の賑わいをと言い、この世に無駄な物は何もないそうで、人は生きてる事でそれぞれに何か役に立っていると言うから、当紙も当局認定の「政治ゴロ」力を生かしてしっかり民主党政権を監視する事にしよう。

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